
いま中東が再び燃え上がる中で、米国とイランの「敵対」がいつ始まったのかを改めて確認しておきたいところです。転換点は1979年のイラン革命と、同年11月の在テヘラン米国大使館占拠(人質危機)でした。かつては親米の国王が統治し、米国とイランは同盟関係に近かった。それが444日間の人質事件で完全に崩れ、今日の構図の土台になっていったのです。
1979年以前、イランはモハンマド・レザー・パフラヴィー国王(シャー)が統治し、米国の近い同盟国でした 。

シャーは西洋寄りの近代化政策「白色革命」を推進し、米国から多大な軍事・経済支援を受けていました 。ところが1979年1月、国内の反政府運動が頂点に達してシャーが失脚・亡命し、14年間の流刑生活を経たルーホッラー・ホメイニ師が同年2月1日に帰国して、国はイスラム共和制へと急旋回します 。この時点で米イラン関係はすでに緊張を帯びていましたが、まだ「決定的に壊れた」と言い切れる段階ではありませんでした。
ポイント・オブ・ノー・リターンとなったのが、1979年11月4日の在テヘラン米大使館襲撃です 。イスラム系学生らが大使館を占拠し、職員らを拘束、当初66人が人質となり最終的に52人が長期拘束されました。

彼らは目隠しや隔離など強い心理的圧迫を受け続けました 。イラン側の要求は、米国によるシャー支援への謝罪とシャーの身柄引き渡しなどでした 。米国がシャーをがん治療のために入国させたことが、イラン国内で「帝国主義的再介入の前兆」と受け取られ、反米世論の決定的な導火線になったのです。
米国側はカーター政権の下で対イラン圧力を強化し、イラン資産の凍結(約80億ドル規模)と原油輸入停止などの措置を取りました 。しかし交渉は行き詰まり、軍事的救出作戦「イーグル・クロー作戦(Operation Eagle Claw)」が実行されます。

1980年4月24〜25日夜、ヘリコプターと輸送機の衝突事故などが相次いで作戦は中止となり、米兵8人が砂漠で命を落としました 。燃え上がる機体の映像が世界中に流れ、米国の威信に深い傷を残しました。現場主義で見れば「作戦の失敗」以上に、「その失敗が全世界に可視化された」点が決定的でした。
危機が終わったのは1981年1月。アルジェリアの仲介による「アルジェ合意」を経て、52人の人質は1981年1月20日に解放されます 。この解放はレーガン大統領の就任式とほぼ同時刻に起きたため、「カーター政権への最後の辱め」あるいは「意図的な引き延ばし」との疑念が後々まで語られました。

拘束期間は合計444日間。米国内では「国家が屈辱を受け続けた日数」として深く記憶され、対イラン強硬論の感情的な土台を作りました。
さらに厄介なのは、危機の「後」にも火種が残ったことです。1985〜1986年に発覚した秘密取引、いわゆる「イラン・コントラ事件」として、米国がイランに武器を売却し、その代金をニカラグアの反政府勢力(コントラ)への支援に充てていた事実が明るみに出ました。

表では断固たる制裁と敵対、裏では武器取引——この二重構造が米イラン双方の不信を決定的に固め、「どんな時も信用できない相手」という認識を双方に植え付けてしまいました。
米国とイランはかつて近い関係にありましたが、1979年の革命と人質危機がその関係を決定的に破壊しました 。救出作戦の失敗、444日間の拘束、就任式と重なる解放、そして後年明るみに出た裏取引——これらが積み重なり、米イランの敵対は「感情」と「制度(制裁・安全保障)」の両面で固定化されていったのです。
いまの戦争報道を追う上でも、単に”現在の衝突”だけでなく、「なぜここまで憎悪と不信が深いのか」を遡って理解することが、結局いちばんの近道なのかもしれません。トランプ政権内の俯瞰思考がどのような次の一手を打つのかに期待します。モハンマド・レザー・パフラヴィー元皇太子とも、会談があるのかもしれませんが、現段階ではそのような情報は政権内から何も出てきていません。そのため、現状ではベネズエラと同様の戦略をとる可能性が高いです。






